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anamimamiko

修道院の庭,囲い

先日、『中世修道院の庭から 歴史、造園、栽培された植物』という本を読みました。


修道院の庭に関して残っている記録はかなり少なく、書物の挿絵やフレスコ画から歴史を読み解くことも多いようです。そのせいか、オールカラーで様々な絵も載っていてなかなか見ごたえのある本でした。



修道院の庭でとにかくキーポイントとなるのは、“囲い”で、手を変え品を変え(!?)囲いが出てきます。


例えば、まず、隠遁生活を送るため、修道院の庭は高い壁で囲われています。(現在日本にある修道院でもよく見られる)


そして、その囲いの中で、またも正方形できっちり囲われた菜園を作っています。(俗世との関わりを避けるためになるべく自給する)


また、泥棒や動物による菜園への被害を防ぐため、壁の周りに更に高い囲いを作る場合もあるそうです。(二重囲い)


さらにさらに(まだ囲うところある?!)、建物の中央に中庭のようなクロイスターという空間(畑などの生産はしない)、こちらも回廊で囲まれた閉じた空間になっています。


なぜこれほどまでに囲うのか、というほど執拗に囲います。


もちろん、精神の静寂を求め外界の情報を遮断する必要があり、囲われた空間が果たす役割は当然大きいと思われます。

それでも説明しきれないこの執拗とも言える囲いは何なのだろうと疑問に思っていると、本書に、“囲まれた空間は天へと開いている”という記述があり、はっとしました。


もしかすると、西洋の視線は、四方を囲まれているせいで自ずと天(空)に向かっており、そうすることで天とつながるという感覚に没入することができるのではないでしょうか? 



一方で、日本の神社仏閣の庭を思い起こすと、やはり壁で覆われ俗世とは隔離されてはいるものの、視線はまず、据えられた庭石などをたどり、塀を超えて、最後は借景の山に向かいます。(借景がない場合はおそらく最初の庭石などのポイントにもどる)

西洋は

視点の方向が上方法、

終着点は空(=天)であるのに対して、


日本では

視点の方向が水平、

終着点は山(=自然)。


かなり大雑把な推察ですが、西洋と日本の祈る場所の庭の造りの違いが、両者の体や自然、祈りの感覚の違いに呼応するのではないかと思います。


また、本書には、自然は神の創造物であるものの、

“人間の手が加えられた庭の構造は、森やイバラの茂みのような自然のままの状態よりもさらに完璧です”

とはっきり書かれており、これもまた、神→人間→自然の順番に優れているという、上下方向の感覚に由来するのではないか、と思いました。


それでは、日本の自然に対する感覚はどうなのか?水平に展開される方向性は、自然との一体感なのか混沌なのか。。。


祈る場所の庭を考えるで、戦後以降西洋化されてきた日本の歪みを知ることができるのかもしれません。



2024.9.26

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