心の中の原風景をお手本に庭をつくっている、というガーデンデザイナーやランドスケープデザイナーは多いと思う。
私は、住宅街のマンションで育ち、雑木林や草原、沼地などで遊んだ経験がほぼない。というか記憶がない。いわゆる原風景が失われた世代、土地の子供だったのかもしれない。
親世代の原風景の話を聞く度、自分がなんとなく根無し草のような、大切なことをすっ飛ばして大人になってしまったような、劣等感をうっすら抱いていた。
マンションの生け垣のアベリアやコニファーの中をくぐったり、下校時に団地のフェンス沿いのサツキの蜜を吸ったり、お世辞にも立派とは言えない校庭のモチノキの上に作った板の間、客土されたマンションの土にいたダンゴムシ、阪神淡路大震災で一瞬にして平面化した景色…
こうして文章にすると、しみじみと寂寥感…溢れ出る自然の豊かさは感じられない。でも、私にとっては原風景はこのようなものなのです。
宮崎駿の『耳を澄ませば』の中で、カントリーロードの替え歌でコンクリートロードが出てくる。団地の家の細々した描写が印象的で、まさに原風景が失われたコンクリート世代にスポットライトを当てた話らしい。
最近、幼少期に使っていた子供イスが、実家から我が家にやってきた。子供ながらになかなかいいデザインだなと思っていて、中学時代も自分の部屋に置いて、座面に写真など飾って満足していた記憶がある。
幼少期、椅子によじ登るときの手の感触が、ぼんやりながらもくっきりと残っている気がする。そこから何を感じていたんだろう。木の育った土地、木の気持ちよさ、家具職人の想いまで、深いところで感じていたのかもしれない。
もしかすると、これも私にとっての一つの原風景なのかもしれない。コンクリート世代にとっての原風景は、寄せ集めの断片的なものにならざるをえない。風景が開発され断片になっていったのだから、原風景も断片的になるのも必然なのかも。
庭を作るとき、私にとって雑木林など風景としての原風景を引き出してくるのは正直難しい。甘い思い出、というものがない。
断片的な原風景を元にして、まだ見ぬ原風景を探すように、作っていってるのかもしれない。
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