清潔とは何か?
庭を通して考えてみたい。
日本人は元来、清潔であると言われるし、コロナ禍以降、ますます衛生に対して過敏になってきている気がする。
『除菌率99.9%』みたいな宣伝文句も、しょっちゅう見るし、知らず知らずのうちに、目に見えるゴミはもちろん、目に見えないものまで、なんとなく気に食わないものはできる限り除去するのが当たり前の世の中になりつつある。
塵一つない、菌もいないような世界は果たして本当に清潔なのか?
庭に置き換えてみると、雑草一つない、落ち葉一つない、気持ち悪い虫一匹もいない庭、という事になるが、これは清潔な庭と言えるのだろうか?
例えば、雑草を一つ残らず除去することを実際やってみるとする。実はこれはかなり労力がいる。『取ったどー!』という達成感があるので好きな人も一定数いるが、土地が広くなれば絶対そうも言ってられなくなる。
雑草は抜いても抜いても出てくるし、抜けば抜くほど土が悪くなって抜きにくくなる悪循環の状態になるからだ。こうして、終わりなき戦いが始まる。
落ち葉掃除にしても、掃除をしてる最中にもハラハラと落ちてくるので、完璧に一枚も残さずはききるのは、不可能に近い。やはり、こちらも終わりなき戦いとなる。
そして、こんなにも、こんなにも、頑張って清潔にした庭は、何故か魅力がないのだ。上辺は綺麗なんだけど、見ていて緊張が走る庭になる。そして、土埃の乾いた感じやジメジメした感じなどが出てきたり、逆に清潔と離れてしまう。
そして最後に残るのは…終わりなき戦いに敗北した無力感と腰痛。
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大地の再生の矢野さんの著書の中で、道具や車、資材の置き方に関する説明があった。環境再生の本なので意外だったが、それを参考に、風を淀ませないよう道具と資材の置き方や場所を変えた。すると、それだけで庭全体の空気感がいっきに清らかになったことがあった。そして、なんとそれ以降家にゴキブリがでなくなった。
ちなみに、置き場所と置き方を変えだけで、断捨離したり、綺麗に整理整頓した訳でもない。
その時の経験で、清潔であるとは、淀みのない、清らかに流れる状態のことかもしれないと気づけた。植栽のデザインを考えるときも、その場の視覚的な映え方より、全体の流れを意識するようになった。
自分が異物と考えている物体(雑草、落ち葉、ゴキブリ)そのものを除去したとしても、気持ちの良い空間は何故かできない。それよりも、物体をとりまく流体(空気、水)を観ること。
剪定、草の切り戻し、落ち葉掃除、等々、様々な庭仕事があるが、ついつい現代人は視覚に頼りすぎていて、触覚や聴覚など感覚総動員の必要があると感じた経験だった。
庭は一つの小さな空間モデルだが、世の中の全ての事に通じる部分があると思う。開発の在り方、建物の建て方、家具の配置、掃除の仕方など。
あまりにも潔癖になりつつ世の中の動きには逆らって、清らかさを求めたい。
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